その1

●ジェンダーフリー・バッシング
 2000年の春以降、これまでの国立の学校教育・社会教育にたいする右翼からのバッシングが始まり、それは今もやむことなく続き、最近では特にジェンダーフリー教育・男女平等教育に対する攻撃として激しくなっています。
 これは一つには、「教育基本法」の改悪が目論まれており、その目玉としてジェンダーフリー・バッシングがあり、その流れの中
で、「男女平等教育」を推進してきた教職員組合の女性部他、いろいろなところが狙われ、叩かれています。国立の先駆的な教育がバッシングを受けていることもありますが、国立の内部では、読売新聞が書いた五小「性教育」記事をきっかけにして、ジェンダーフリー教育への非難が始まったといえます。
 それに先駆けて、学校指導課と一部校長は、道徳の公開授業で、高橋史郎や長谷川三千子や米長邦雄を招いて、「男らしく・女らしくの教育がよい教育だ」という下敷きをしいていました。あとは、その下敷きの上に紙をおいて鉛筆でなぞれば、その下敷きに書かれた字が浮き出てくるという仕掛けができていて、誰がそれをなぞるか、という段階にきているように思えます。

●市教委への陳情
 4月の市教委定例会で出された陳情は、「ジェンダーフリー教育はけしからん。国立市の男女平等教育の手引きは撤回せよ。学習指導要領に沿った教育をせよ。」というものでしたが、5月の定例会でも、不採択の1人をのぞき、4人の教育委員はもっと勉強してから……、という話で、結局再度の継続審議になりました。
 一応、今のところ教育委員会自身が率先して、鉛筆をもってなぞることまではあまり好ましくないと考えているのかなと思いますが、でもいつその気になるかわかりません。だって、私たち市民が出す陳情は、内容を問わず「不採択」に決まっているかのように簡単に「不採択」にするのに、右翼の出す陳情に不採択を出すのはよほど怖いのか、かといって採択するのもいかがなものか、という意識も若干働くのか、2度も継続審議にするなんて。審議内容を聞いていたら、不採択でいいのにと思うのに…? 不思議な現象です。
 まあ、とにかく「日の丸・君が代」強制が実現されたあとは、今度はジェンダーフリーをつぶせとばかりに頑張る方々の真意はどこにあるのか、これから、じっくりと考察していきたいと思っています。皆様からも、ぜひご意見をお聞かせください。

●右派のリーフレットを検討する
 ここに、1枚の右派のリーフレットがあります(5ページ参照)。ずいぶん一生懸命作ったかなと思われるので、こちらも一つずつ丁寧にあたってみたいと思います。
 彼女・彼らの発想や心情があらわれているなとも思うし、なぜこんなふうになるのかをしっかり考えることも面白いと思うので、内容をご紹介しながら、私なりに考えたことを書いていきたいと思っています。


◆恐怖心を煽る
 
では1行目から。 

 「男女共同参画」に過激なフェミニストが仕掛けた大きなワナ

 最初から誇大広告になっていませんか。この一行に「過激」「仕掛け」「大きな」「ワナ」と説明抜きに陰謀めいた臭いを感じさせる言葉が4つも使われています。これは「男女共同参画」と「フェミニスト」という2つの言葉と、あとの4つの言葉を並べただけで文章としては意味不明なのですが、何か「男女共同参画」は「怖いもの」というイメージを与えますね。
 これがどのくらい効果的なのかわかりませんが、でもかえってウソくさい感じがしてしまいませんか?

◆イメージを植え付ける
 そして、次の行には

 2つのパンフレットが示す、ジェンダーフリー社会の恐るべき未来(男女の性別否定)

 とあります。ここでいう、2つのパンフレットというのは、文部科学省が委嘱事業として作った『新子育て支援 未来を育てる基本のき』と、厚生労働省所管財団発行の『教えて、聞きたい、思春期のためのラブ&ボディBOOK 男の子のからだと心 女の子のからだと心』という2冊のパンフレットです。その表紙のコピーが載っています。そして、『基本のき』の方には、「男と女の違いや健全な風習・慣行、伝統文化を否定しています!」とのコメントがついています。また、『ラブ&ボディ』の方には、「「ピルの奨励」と「安易な人工妊娠中絶」などフリーセックスを勧めています。」とのコメントをつけています。

◆具体性のない「男と女の違い」
 「男と女の違い」と簡単に言っていますが、何についての違いでしょうか。そもそも、具体的・実態的(社会的・文化的・生理的等)な男と女を考察せずに、「違う」ということを前提にして築かれてきた文化に対して、今ジェンダーフリーが言われているわけで、その価値観そのものを議論すべきときではないのかという問いかけがジェンダーフリーの問いかけなのに、「違い」を前提にしてしまっては、議論にもなりません。右派のこうした言い方は、一方的で、議論を回避した言い方です。

◆イメージで恐怖心を植え付ける
 また「健全な風習・慣行、伝統文化」とは何でしょう。「健全」とはどんな意味なのでしょう。もっと具体的にいってほしいものです。また誰が、いつどこで、何を基準に、健全・不健全を決めるのでしょう。その時代・社会によって、また同じ時代に生きても環境によって、その感じ方や考え方は様々でしょう。それを何の説明もなく「健全」なものというものがあるかのように言うことが、決めつけでないといえるのでしょうか。
 そしてここでも「否定しています!」という言い方で、「男らしく・女らしく」でよいと思っている人たちにも、「ジェンダーフリーは不健全でコワイ!」というイメージを更に植え付け、追い打ちをかけようとしています。
 「男らしく・女らしく」が良いと思う人たちも、きっと日々の暮らしの中で、「何か変だな?」「家事は主婦の仕事?」と思うことがあるにちがいありません。ですから、その時には、むしろ安心させてあげて納得させてあげる必要があるはずなのに、あまりそのような話は聞いたことがありません。「ジェンダーフリーはコワイ、危ない、近寄らない方がよい」という〈脅し〉によって遠ざけることで、「男らしく・女らしく」を〈護ろう〉としていることがわかります。
相手を怪物のように言って、「あいつはコワイから近寄るな!」と言っても、疑問が解決するわけでもなく、日々の暮らしの不安が解決するわけでもなく、〈見えないお化け〉に怯えて、もっと窮屈な気持ちで暮らすことになりはしないのでしょうか。
 本当に「男らしく・女らしく」が良いなら、もっと現実的に「こんなにいいよ」ということを言わない限り、あまり説得力はないでしょう。

◆旧態依然の道徳観による<性>への対応
 また、「ピルの奨励」と「安易な人工妊娠中絶」が、フリーセックスのためにのみあるかのような言い方も、意図的です。フリーセックスはいけないもの、だからそのためにあるピルと中絶もいけないもの、そんなものをすすめるなんてとんでもないのだ、と言
っているにすぎません。
 なぜピルがうまれたのか、なぜ中絶がなくならないのかを考察することなく、また社会問題になっていることを、社会全体から考察せずに、個人の道徳の問題にすり替えてしまっているにすぎないのです。旧態依然とした価値観に支えられる「道徳観」だけを頼りに、「性」の問題を片付けようとしています。
 「女大学」「純潔教育」は、それこそ日本で伝統的に女子教育の軸にすえられてきて、何とか道徳的に解決しようとしてきたのでしょうが、それでも解決せずにきた中で、女性やマイノリティーの人々が、自分の身をさらしながら、性の問題を社会的な問題として提起し(軍隊慰安婦の例で明らか)てきたことを、もう一度闇の中に葬ってしまおうということしか感じられません。
 世界的な男女平等の流れに対して、時代を逆行させようとする右派の人たちは、もう少し冷静に、自分の幸せは本当は何なのかということを、具体的に考えた方がよいのではないでしょうか。

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 次回は、「男女共同参画の落とし穴」という見出しの文章について、考えたいと思います。(女)