謎宮会 1999/2
ヘレン・ケラ一と15頭のエスキモー犬
料理・美食を扱ったミステリは多い。この手のお題だと必ず飛び出すのがダンセイニの『二壜のソース』だのエリンの『特別料理』だのダールの『おとなしい凶器』や『味』、長編ではクレッシングの『料理人』やスタウトの『料理長が多すぎる』、ナン&アイヴァン・ライアンズの『料理長殿、ご用心』、最近だとジェフ・ニコルスンの『食物連鎖』といったところが直ぐ浮かぶし、美食ミステリのアンソロジーも幾つかある、なんて全部読んでる訳じゃないけど。
でも、それらの美食ミステリの中でも地上最強の作品、ストロンゲストな作品とは何か、あんた知ってるかい? 俺、知ってる。それは実は日本人によって書かれていた。嘘じゃない。ホント。だけど日本で書かれた美食ミステリなんざ高が知れてるじゃねえか、そう思う人も多いだろう。確かに、陳舜臣の『虹の舞台』や『幻の百花双瞳』、阿刀田高の『わたし食べる人』、小林信彦の『大統領の晩餐』、嵯峨島昭の酒島警視物、あれ数えだしたら結構あるな、いや、でも欧米に比べたらお粗末なものだ。それは間違いない。
でも敢えて俺は言わせてもらう。地上最強の美食ミステリ、ストロンゲストな美食ミステリ、言わば美食ミステリの核弾頭とでも言うべき作品は日本人によって書かれていた。その題名は『明日への饗宴』。作者は碧川浩一。誰だそれ。
説明しよう。富山敬。碧川浩一は筆名であり、本名の白石潔の方が有名である。白石潔。誰だそれ。慌てんな。今説明してやっから。中島河太郎の『推理小説辞典』によれば、このシトは明治37年生まれの読売新聞社勤務で、社内にタンテエ小説を楽しむ会を結成し、長じてタンテエ小説論を上梓もしたが「独断飛躍が多く(河太郎談)」、例えば「捕物帳は『季』の文学」という論を展開してるそうだが、都筑道夫が光文社文庫版の『半七捕物帳』の解説でこれを愚の骨頂だとの論調で激しく批判してたのを思い出す。
因みに俺がこのシトの名を初めて知ったのは山村正夫の『推理文壇戦後史』を読んでのことである。何でも山村がこのシトの家に訪ねていったら、本人が出てきて「白石はいないよ、本人が言ってるんだから間違いない」とか言ったというエピソードが紹介されてた。どうにかしろよ、こんなオヤジ。
その後図に乗って創作にも手を染め、昭和35年には書き下ろし中篇3篇(『美の盗賊』『明日への饗宴』『チカ昇天』)を収めた単行本『美の盗賊』(桃源社刊)を碧川浩一名義で刊行する。本書のあとがきでは「この本は、推理小説も純文学に迫ることができるといった野心から生まれたものではない」と書きながら、「推理小説のジャンルを少しばかり抜け出して、純文学とも握手できるのではないかと思う」とも述べている。その志たるや大いにヨシだが、問題は何故かこのあとがきのみ「白石潔」という本名で書かれていることだ。碧川浩一の本名が白石潔だということを知らなければ何のこっちゃ、というちょっと訳の分からないことになっちゃってる。
この単行本『美の盗賊』についても河太郎の評価は渋く、辛うじて『チカ昇天』を最も成功した作としているが、分かってないと思う。この本で最も詰まらないのが『チカ昇天』なんだから。そして『美の盗賊』『明日への饗宴』という順で徐々にすンごいことになってるんだから。
表題作の『美の盗賊』も相当に「終わってしまった」小説だが、『明日への饗宴』の「終わってしまった」度には適わない。この『明日への饗宴』が如何に「終わってしまっ」てるか、そして何故に俺がこの『明日への饗宴』を地上最強の美食ミステリ、美食ミステリの核弾頭と呼ぶか、これはもう俺がつべこべ論調めいた言葉を挟まずとも実物を読めば一目瞭然なのだが、とっくの昔に絶版になった本なので以下に要約を紹介したい。この要約を読んで本作品が如何にすンごいか、如何に「終わってしまっ」てるかが諸兄姉に伝わらなければそれは俺のせいである。碧川チャンのせいではない。
一二付け加える。最前から俺は「美食ミステリ」と言ってるが、この『明日への饗宴』はあとがきでも作者が宣言してるとおり「推理小説と純文学が握手」したものであり、しかも握手した手が脂性だったらしく、以下の要約でも分かるように「推理小説」でも「純文学」でもない「何だか妙なもの」になってる。だから「美食ミステリ」と呼ぶべきかどうか実は迷ったのだが、作者が「推理小説」と言い張ってるし、本の背にも「新作ミステリー」とあるので、「美食ミステリ」なのだという前提で話を進める。文句あんめえ。
それともうひとつ、この作品は明らかに岡本かの子が書いた『鮨』『家霊』『食魔』といった一連の「食」をテーマとした短編群(殊に『食魔』)に影響を受けていることを指摘しておく。双方を読み比ベれば分かる筈である。
では、以下に『明日への饗宴』の要約を紹介したいと思うが、その前に「田舎の頭の悪い高校生の会話」を紹介する。
「藤原紀香ってよお、いいよなあ」
「たまんねえよなあ」
「でへへへへ」
「でへへへへ」
以上「田舎の頭の悪い高校生の会話」である。さて、この後はお待ちかね(嘘)『明日への饗宴』の要約である。「」のついた文章は本文からの引用である。
第1章。大学で物理を教える田井真夫は「食」に関して病的なまでに鋭敏な感覚を持つ男である。最愛の妻の水子(何ちう名前だ)は夫の食事に対する要求にこれまた常に神経を尖らせており、夫婦は互いに相手の食に関する発言の言外の意味を汲み取ろうとしている。今日も帰宅した夫は通りすがりの魚屋の生臭い匂いに閉口し、当初予定していた夕食の献立のカジキの刺身を中止し、焼いた葱を作らせる。「ねぎを更に盛りながら(中略)水子は思わず身ぶるいした。(中略)水子には、その衝動が、なにか悲しみにかわってきた。」田井は云う、「『いいかい、食べるものというものは、その日の天気や、なんかによるものなんだよ。(中略)夕陽があまり赤く光っていては、刺身は駄目なんだ。つまり色だよ。』」そして彼はこうも考える、「人間が何万年も経て工夫した口に入れるものが、これほどの程度のものしかないのだろうか。」「女は料理は下手なものである。(中略)板前が全部男性であることに対して、女性というものは何の嫉妬も憎悪も感じないのである。(中略)世界中の家庭の主婦が、世にも聡明でない料理をつくり、そして主人がこれを一生涯食べて、死んでゆく。」「『悲劇とも、いえる』」田井はつぶやく。
第2章。田井は自宅に友人の文学教授・小山とその妻を招待する。小山は田井とは違い何でも気にせず喰う男である。水子が献立表を夫に見せると、田井はそれに注文をつける。「『この汁はどうかと思うな。(中略)なめこはいけない。酢のあとの味噌椀は好かんな。味噌というものは、どこかにかくれているからいいのだ』」「『料理の材料が、料理する者に立ち向かってくるということは、何たることだ。(中略)人間の手にまかしてこそ、本当の料理の材料なのだ。なまなかな板前が魚を大切にして頭を下げるなんて、それだから立派な料理が出来ないんだ』」しかし招かれた小山は案の定、「ものを喰うのに、知性がいるのかい」と云いつつ、ムシャムシャと無神経に喰う。
第3章。田井の母・三輪が伊豆から訪ねてくる。母の滞在中、何故か田井は殊更食物に無関心を装っているかに見える。夫婦は揃って神経をすり減らし、母のための食膳を用意する。「『まず、うどだ。母さんには、これをクリーム煮にするんだ。(中略)』『わかっていますが、こんなバタくさいもの、お母さん召し上がるかしら』『出してみるんだ。どんな顔をするか。何百年も誇った料理法と、このバタくさい、崩れゆくような文明的なやつと、どっちに軍配を上げるか、みてみるんだ』」しかし、母は平然とそれを喰う。「仮面のようなそのかんばせには、少しも動揺はなかった。『これが仮面料理か』と真夫は思った。そうだ。日本が永い間伝えてきた料理法は、魚菜の名を冒涜した仮面の料理なのだ。(中略)水子の心を思いやると、心は動揺した。水子を守ってやらなければならない。」その夜の寝室で夫は妻に云う、「『水子、気にすることはないんだよ。こんな、ロケットが月に向かっているころ、どうのこうのと料理のことなんぞ、およそナンセンスなんだよ。だけれど、このナンセンスさえ、今の僕らは捨て去ることが出来ないんだよ』」
第4章。水子は夫の留守中に夫宛に来た銀座のレストランの案内状を内緒で見て、冒険心で行ってみる。「水子が夫にだまって、外で食事をするのはその日が初めてであった。」彼女はおどおどと席につき、「おひとりですか」と聞かれるとめまいがしそうになった。料理は羊づくしのコースであるが、最後の羊肉のコロッケをくだくと、中の肉のかたまりが桃色に見え、水子は思わず吐き気を催す。「水子は真夫の言う言葉がわかるような気がした。沢山の知恵と経験を集めたものが、これだけだったかと考えると、肌が寒くなってきた。(中略)真夫が料理に執念にも似たものを持ち、そのために人間を軽蔑していることが、少しはわかるような気がした。」その夜、妻は夫に昼間のことを話す。「『僕も一緒に行ってやればよかったな。そんなコロッケより、町で売っている五円の方が美味いんだよ』『すみません』(中略)水子は、夫の、愛情に似たようなものがその言葉のなかにしみじみ通ってくることを感じた。『もし、苦しんでいるとすれば、この人だ』」夫は妻に白湯を頼む。「立ちのぼる湯の白い光を見つめている水子は、夫とともに、いま、このまま死についてもよいと思った。(中略)真夫が死のうといえば、すぐ死ねる自分をはっきりと意識した。」
第5章。田井夫婦と小山は伊豆へ旅行に出かける。その途上、田井は突然伊豆行きを中止し、手頃な地方都市で途中下車しようと言いだす。後の二人はあきれたが、決局田井に従う。街にある「釜鳴屋」という旅館に三人は入る。田井は云う、「こうした土地でどんなものを作るか、それを見たいのだ」。出てきた料理は刺身やらカツレツやら蒲焼やらチャーシューやらが所狭しと並ぶ凄まじいものだった。三人はしばし無言になる。田井はイカの刺身を喰い「非常にうまい」と云う。水子は夫の喜ぶ顔を見て幸せな気分になる。「つまり材料に負けてないんだ。(中略)ここの人たちは、勝手にブッタ切ったり、煮こんだりしているのだ。」田井は翌朝女中に料理だけでいくらだったかを聞く。女中はあっさり「八百円です」と応える。田井はたじろぐ。
第6章。クリスマス。何故か今年に限って田井は、常日頃軽蔑しているデコレーションケーキを許可する。食卓にさつま芋の甘露煮などと並んでいるケーキを見て田井は楽しげである。彼は妻相手に「食」についての議論をぶつ。「『物質の性質と構成とは直接に関連性を持っているんだ。(中略)構成を知らないで、その性質を決めつけたり、性質を知らないで、構成がわかるはずがないんだ。(中略)それが料理なんだ』」夫の言葉を聞いて、水子は身がしまる思いがする。「これがラストレッスンかもしれない」。小山が訪ねてきて、皆はカレーライスを喰う。
第7章。その夜小山が帰った後、夫婦は街へ出る。病院の近くに赤提灯を見つけ面白がって入る。品書きには「おでん」「鍋焼き」「ラーメン」などとある。田井は酒を注文する。水子はとまどったが意を決して言う、「ラーメンいただきません、お酒の肴に」。「真夫は、この時、心がしびれるような気がした。水子が、力のある限り、しぼりにしぼった答案だったからである。(中略)水子が自分に近づいたのである。真夫はこの時、完全に自分の妻を愛したことを知った。なぜ水子が、鍋焼きを注文しなかったか、そんなことを水子に聞き出す必要は、どこにもなかった。」店のおかみの話を聞きながら田井は考える、「真夫は今度は水子に対して答案を書かなければならなかった。カレーライスのあとにラーメンを食べる真夫でないことは、水子も知っているはずである。『物質の構成というものを、むしろ破壊しようとしている。そのことによって自分を救おうとしているのかも知れない。(中略)つまりはアンバランの上に立っているラーメンのようなものが自分を救うことが出来ると、水子は考えているのだ』」ここでラーメンについて詳しく水子に聞けば大変なことになる、心の動揺を田井は感じる。二人は夜景を眺めている。
以上7章の後、小山の手記でこの小説は終わる。「田井夫婦は死んだ。(中略)クリスマスの夜、自宅で睡眠剤をのんで自殺したのだ。(中略)きわめて幸福そうに床に横たわっていたそうだ。(中略)教授は、すべての今に、抵抗したのだ。(中略)田井教授は、死をもって、なにか見えないものに挑んだのだ。そして今も挑んでいる。ただ、(中略)田井よりも、水子夫人の方が、遙かに教授を引き抜いていたのではないだろうか(中略)どちらが手を引いたか、これは謎である。それでよいのではないだろうか。」
これが『明日への饗宴』という小説の要約である。俺がこの小説を地上最強の美食ミステリ、美食ミステリの核弾頭と呼ぶ理由がお分かり戴けただろうか。俺は最初に読んだ時、作者がギャグのつもりでこれを書いていたならば天才であると思った。また、友人にこれを貸したら、彼は「今時のサイコ・スリラーなんかよりも余程怖え」と震え上がっていた。
尚、先述の『推理小説辞典』によれば、白石潔は「四十四年二月十九日に死去したが、晩年の二三年はまったく狂気の人であった」とある。
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謎宮会 webmaster:meikyu@rubycolor.org(高橋)