奈良 東大寺二月堂 お水取り

 奈良東大寺二月堂のお水取りは、21世紀になって2001年で1,250回目を越えました。新たな世紀に回を重ね、奈良時代の開始以来一度も休んでいない。お水取りのおたいまつは、毎年3月1日から14日まで行われます。


こぼれ落ちた話のページ[こぼれ水の話1 香水-実忠和尚-おたいまつ]
               [こぼれ水の話2 言葉-用具(制作中)]
               [こぼれ水の話3 黒田新庄松明調進(制作中)]


 お水取りの「達陀(だったん)」で二月堂が江戸時代に焼けたことがあるそうです。13日午前3時頃と、14日に午前1時、15日午前0時頃行われる「達陀」は私も東大寺側の許可を得て入ったことがあります。

 何しろ木造なのに松明を引きずり回し、床に叩きつけ火の粉が飛び回る。そして五体投地の荒行。続けて行われる行では総理大臣や各大臣の名前までが読み上げられる。本当に驚きました。あの深さと壮大さ。そして韃靼の踊りと伴奏ときたらとても一度見聞きしたら忘れられない。見たとたん思った。よく1246年(当時)も火災にもならないで続いたと。やっぱり火事になったことがあったんだ。とても気持ちの通じる東大寺。どこも火事にならないように手を合わせます。

 夜の「達陀」の行が見たいと思うだろうけど、これは東大寺寺務所か塔頭の前もって許可した者しか入れない。きびしいけどそんなに開放的にはできないだろうな。しかし女性差別で堂の外陣には男性のみ。女性は堂内の局(つぼね)という仕切内までしか入れない。これは何とかならないかと思う。ここしか無いというのは若狭井から酌んだお香水を手に一しずくづついただけるということ。私もいただき、顔にすり込みました。


■修二会とおたいまつ
 二月堂の前、待っていると登廊の下の方にポッと小さな火が見える。それはやがて大きな火となる。粛々と二月堂に上っていく大きな松明。上がった途端その松明が色々な技巧をこらして振り回され燃えさかる。いっぱいの観衆の上に滝のように火の粉が流れ落ち、様々に火は奔流し躍動する。その火のさかんな動きに歓声が上がる。鐘はおたいまつのあいだ鳴り続け、芭蕉が詠んだ「水取やこもりの僧の沓の音」のまさに沓※の音がカッカッとする。堂内のお灯明の灯りの中、どう表現すればいいか、みごとな東洋コーラスの声明が流れる。
 実はまだ私はかぶったことがありません。小さい頃母に連れられて行ったのですが、危ないからと母がそんな近くに行かなかったのが習慣になりました。

 「お水取り」は静と動、水と火のダイナミックな祭典である。あれは仏教なんでしょうか。普通の日本仏教のものではない。この行事は、正式には「修二会(しゅにえ)」といい、大きな松明を使うところから「おたいまつ」と呼んだり、13日早朝に本尊に捧げる1年間の香水を若狭井という井戸から汲み上げるところから「お水取り」と呼んだりする。関西に春を告げる行事として有名だ。お水取りが過ぎないと本当の春は来ないと信じている。行事は、2月20日から月末までの「前行」と、3月1日から14日までの「本行」とからなる。

 修二会とは、一口に言うと寺と僧、そして社会の1年の準備で、水の外に南天椿の造花(両リンク)約400個などの行の必要物品を作ったり声明の練習をしたり、そして精神的なものと両方やるということ。「前行」では本行のための準備をし、「本行」では、1日に6回の行(「六時の行法」という)を行う。この六時とは、「日中、日没、初夜、半夜、後夜、晨朝」である。前行は別火坊で行い行のあり方は「別火」がキーワードとなる。これは後段に書く。

 修二会の意味は、十一面神咒心経(しんじゅしんぎょう、玄奘三蔵訳)にもとづくものでその本尊である十一面観音の前で全ての罪や過ちを懺悔することにある。これは11人の練行衆(参篭、おこもりする修行僧)が人々に代わり本尊に個人だけでなく国家や社会が犯した全ての罪や過ちをざんげし罪障の消滅とともに仏の加護を願うという、悔過を行い国家の隆昌を祈る。

 詳細は練行衆※は数珠をすって礼拝しながら十一面悔過の声明を唱え本尊の四周をめぐる。これは多くの人々や国家の罪や汚れをはらうと同時に、それらの人々の除病延命を祈るための行なのである。その中で僧と寺と仏教と国民と国家がつながり、それぞれの反省とリフレッシュがされ繁栄を祈る。これが修二会の核心部分であり、お松明はその一部である。実は本行は、二月堂の中で行われる。

 おたいまつは各日のクライマックスとなる初夜の行へ二月堂に上がるための灯りにすぎないものであり、それを二月堂の周囲の舞台で炎の華やかな演出をしたものであり、火の粉を浴びると1年間幸いと健康を得られるというのも宗教的根拠はないと実は東大寺は言っている。しかし私は断言する。決してそうではないと。あれはそれまで別火として隔離してきた浄火(浄められた火)を全ての人に与えているのであり幸いと健康が得られるというのも意味があるのだ。社会の全ての人をリフレッシュして1年を始めるというすばらしい行事なのだ。これは下記「別火」というキーワード」を見てほしい。
 しかし国家や総理の罪や過ちを懺悔してしっかり祈って欲しいのは全国民の願いですね。

※沓 練行衆が内陣ではく沓を差懸(さしかけ)と呼ぶ。
※悔過=けか     悔過とは、仏前に罪を懺悔する儀式である。
※隆昌=りゅうしょう 勢いの盛んなこと。国家の繁栄を祈るのは東大寺とは聖武天皇創建以来護国の寺であるからだ。

○参篭衆解説

※練行衆(れんぎょうしゅう、参篭、おこもりする修行僧)職名解説
四職 役職 和上 大導師 咒師 堂司
ししき わじょう だいどうし しゅし どうつかさ
職務 練行衆に戒を授ける 修二会の最高責任者・統括者 呪禁氏、結界・勧請など密教的手法を司る 法会進行の監督責任者
平衆(ひらしゅう) 諸役分担者 北座衆ノ一   南座衆ノ一   北座衆ノ二
南座衆ノ二   中堂ノ一    権処世界(ごんのしょせかい)  処世界(しょせかい)
三役職名解説
駆士 小綱兼木守 堂童子
くし どうどうじ
湯屋を掌握し、雑法務に携わる 法会の会計・雑法務担当者、堂童子役の稲垣家の方が兼務。 二月堂礼堂、外陣、閼伽井屋等を掌握し、行に付随する外縁的な作法を担当。代々稲垣家が継承して担当。01年代替わりした。
部下解説
加供 童子 仲間
かく どうじ なかま
堂司の助手 行法の裏方雑用係、たいまつの製作と点火担ぎ振り回し役 四職の世話係

■おたいまつ 
 お松明は、3月1日から14日まで毎日、初夜の行法(大体19時〜20時)に練行衆が堂に上がる時の案内に使われる。毎日10本上がり、全長約6メートル、重さ約40キログラムであるが、12日だけは、これから「お水取り」の行なわれる日であることから、通常より大きな、全長約8メートル、周囲約30センチ(直径10センチ)、重さ約80キログラムのものを11本上げる。この松明は、通常より大きいために、竹で編んだ篭を松明に被せたので、篭松明と呼ばれている(篭の直径約80センチ)。

[おたいまつ次第]
 ○1日〜11日・13日
・18時10分頃、2日以降は17時30分、処世界(練行衆末席)入堂。処世界は初夜の行法の準備のため1人だけ先に入堂する。2日以降は他衆より1時間半早く入堂して準備する。

・18時40分頃、三度の案内。堂司の支持を受け、チョロ松明を掲げた加供が、参篭宿舎と二月堂との間を駆け上がり駆け下り三度往復する。
 (1)「時香の案内」時刻を問い合わせる。
 (2)「用事の案内」練行衆の上堂を予告する。
 (3)「出仕の案内」練行衆の上堂を告げる。
 ちなみに2001年3月4日に聞いていると、最後の出仕の案内の時階下で加供は「行きまっせー」と一声して上がりました。しかしあれは奈良弁ではないな、いつもあんな風に言うのだろうか、などと何か悩んでいます。
処世界は「出仕の案内」を受けると、礼堂で出仕の鐘を上堂・おたいまつの間撞き鳴らす。

・19時00分、 初夜上堂。練行衆は出仕の鐘を聞くと下座から2、3人ずつ登廊に並び燃えさかる上堂たいまつに先導されて1人ずつ上堂する。(これがおたいまつである。)平衆は床を踏み鳴らして内陣に駆け入り、四職が上堂し終わるまで続ける。四職が礼堂に着座した後、改めて1人ずつ内陣に入り本尊を拝し着座する。

 ○12日
・18時40分頃、この日は午後から日程が変わり仮眠後作法のほか全員での内陣掃除や達陀の準備練習で、そこから処世界が残り準備にはいる。

・19時30分頃、三度の案内。上記と同じだが加供の持つのも加供松明と少し大きい。処世界は最初に上堂した権処世界に鐘撞き役を引き継ぎ参篭宿舎に戻る。

・19時35分頃、篭松明上堂。実は篭松明の時もたいまつが大きいが、儀式内容としては通常と同じく先導され入堂する。ではなぜ11本か。それは戻った処世界が上堂作法に加わるからなのだ。

 ○14日
・17時30分、処世界上堂。2日と同じ。
・18時30分、  初夜上堂。作法は変わらないがこの日だけ時間がスピードアップされる。終日の結願作法が多いからだ。前の人を追うように次々上堂するのであっという間に済む。たいまつの火が先に上堂する人の尻を焦がすほどに接近して上るのでこの日の上堂を「尻焦がし」とも呼ぶ。だからおたいまつもあっという間に済むので要注意。

■お水取と行
 3日2時頃、お水取りの行事が行なわれる。咒師(しゅし)を先頭に練行衆の中の6人が、本尊に供える1年分の香水を若狭井に汲みに行く。このお水取りは本当に秘技で咒師以外の練行衆でも若狭井を見ていない。入れるのは咒師と堂童子と閼伽桶を荷った(担い台で運ぶ)庄駈士(しょうのくし、湯屋の下役)だけで他の5人の練行衆は入口を警備する。

 お水取りの後、「達陀」が行なわれる。
 「達陀」とは、大松明を持った練行衆が堂内を駆け回り松明を引きずる行で、13日午前3時頃と、14日に午前1時、15日午前0時頃に行なわれる。練行衆の1人が五体投地という体を投げ出し五体板で膝で打つ行もされる。これは痛みに耐える練行衆の呻き声が聞こえることもあるそうです。

 詳細は、まず咒師が出て、鈴を振り鳴らして八天を呼ぶ。現れる八天は黒い衣の袖をまくり上げ、ビロードと金襴にスパンコールの付いた鳥の頭を象ったような達陀帽をかぶっている。八天は練行衆がそれぞれ、柄香炉、洒水器、芥子、楊枝、大刀、錫杖、鈴、法螺貝などを持っていて、それぞれ飛び上がり礼堂に向かい火や水をまき散らす。

 やがて法螺貝と錫杖と鈴のブォー、シャンシャン、リンリンというにぎやかな伴奏の中、燃えさかる大松明を持った火天が現れ礼堂にたいまつを突き出す。そして洒水器を持った水天がそれに対峙する。この達陀たいまつは屋内なのに本当にぼうぼうとよく燃えており、下は杵型、上は漏斗型で、長さ3メートルもある。内陣・礼堂は火と煙が舞い上がり伴奏が続き、火天と水天のかけ合いでたいまつを突き出したり引いたりする。その時火天は前後に飛ぶが、独特のステップを踏みリズミカルなテーマ伴奏が付く。火の粉があたりに飛び散る。10回ほどの跳躍の後、火天はたいまつの火を床に引きずりながら内陣の須弥壇の四周を回る。このやりとりが10回あまり繰り返される。火の粉をほうきで掃集める。堂の内外は神秘的な雰囲気が立ちこめる。ようやく火勢が衰える頃に咒師の合図でたいまつを内陣口に立てて、そして礼堂にどっと投げ倒す。うわっと火の粉が飛び舞い散る。そうして再び垂直に立てて床を打ち内陣に運び去る。

 ちなみにお水送りという行事が毎年3月2日福井県の神宮寺で行われている。この伝説も後で書く。

■修二会の草創
 まずは東大寺から。最初、三笠山のふもとにあった金鐘寺が、天平13年(741年)現在の場所に移って大和国分寺となり、さらに、高僧良弁の活躍で境内に東大寺が設けられた。天平12年(740年)、聖武天皇は、河内(柏原市)の知識寺に立ち寄り、そこに安置されていた毘盧舎那仏と出会い、東大寺大仏の建立を思い立ったとされている。仏教を根本に据えて国造りを聖武天皇は考えたが、これは華厳経を中心としたものである。大仏も東大寺も華厳経を表したもの。天平15年(743年)、滋賀の紫香楽宮で「大仏造立の詔」を発し、翌年大仏鋳造の工事が開始されたが、天平17年(745年)工事を中止した。

 天平18年(746年)、大仏の造立工事が現大仏殿の箇所で再開され、3年間に8度の改鋳を繰り返した後、天平勝宝元年(749年)10月に大仏は完成した。これが有名な奈良の大仏で、大仏を安置してある大仏殿は世界最大の木造建築である。東大寺には、大仏殿・法華堂などの国宝、重文の二月堂などの建築物を始め、国宝の仏像も数多ある。正倉院は、以前は東大寺の倉であったが、今は宮内庁の所管になっている。

 そして二月堂だが、東大寺の行法の場である二月堂は実忠の創建で、実忠は天平の東大寺創建の時の目代(総務・土木・企画担当責任者)だが、実務の天才と言われた方。修二会の行法は、実忠が笠置山の龍穴で菩薩たちの行法を見て、その素晴らしさに打たれ、この地に移したものとされる。大仏開眼供養の行なわれた天平勝宝4年(752年)に始められたとされ、以来、一度も途絶えることなしに続いている。
 元は修二会というのは実忠の私的な行事だったようだ。それに参加する僧俗も、実忠の子飼いの者たちだけだったようである。実忠は「わしは、60年というもの、二月堂で、毎年14日のあいだ、六時の行法を修してきた」と、ひとびとに語ってきたという。

 ただ、実忠の子飼いの者たちは、奇妙な話をその師からきいていた。『二月堂縁起絵巻』にあるが、実忠は若いころ、奈良から遠からぬ笠置山(京都府相楽郡笠置町)にのぼって修行していたとき、竜穴をみつけ、そこに入った、というのである。その年月まで伝えられている。751天平勝宝3年辛卯10月のことである。
 その洞窟に入って北へ一里ばかりゆくうちに、にわかに光の世界に入った。実忠にはすでに知識があったために、そこが兜率天の内院であることがわかった。
 その世界には四十九の院がそなわっており、巡礼してゆくうちに紫金の光が旋回する摩尼宝殿の前に出た。

 さらに常念観音院という処にゆくと、すでに聖衆があつまっていて、しきりに十一面悔過の行法を修していた。行法がすすむうちに、中央に生身の観世音菩薩があらわれ出たことに実忠はおどろき、その行法の素晴らしさに、聖衆のひとりにぜひこの行法を下界にもちかえりたい、といった。

「それはむりだ」と、聖衆のひとりがあざけるように言った。
「人間世界の時間は、みじかすぎる。この兜率天にあっては、 一昼夜が人間世界の四百年にあたる。この行法は一日千遍の行道を怠りなく修さなければならぬ。人間の世界でやれば数百年をかけねばならず、とてもかなわぬところだ。なおその上、生身の観音が本尊になっていただくためいらっしゃらなければ、この行法はなりたたぬ。あきらめたほうがよい」

 しかし、実忠はこう返答した。
「ここでは、行法の動作がゆるやかでございます。一日千遍の行法といえども、下界でそれをやるとき、作法を急激にして走って行い、数を満たすことができます。生身の観音は誠をもって私が必死に祈って勧請してみせましょう」
 ちなみにこの行法は3月5〜7日、12〜14日の「走りの行法」のことで数百年の時間に追いつくため練行衆はひたすら礼堂内を走ります。残念なことにまだ見ていません。

二月堂ろうそく奉納(おたいまつ後)

 そういうやりとりがあって、実忠は、東大寺に戻るとすぐ難波の海岸へ行った。そこで海の彼方の天埜(インド)の南海岸にあると信じられていた観音浄土、補陀落山(ふだらくさん)に向って、香華をささげ、 100日ばかり一心不乱に祈った。「生身の観音、渡らせ給え」と。その祈りが通じたのか、ある日、沖の方から閼伽折敷(あかおしき、仏様にお供えをするお盆)に乗ってきらきら光る金銅仏が打ち寄せられた。一傑手半(1尺3寸)の金銅仏で十一面観音像であった。感激してお迎えした実忠の掌に、人肌の温かさが伝わってきた。まさしく生身の観音である。この観音は奈良へ迎えられ、東大寺の背後の霜索院に堂を建てて収められた。それが今の二月堂だという。

 この観音さまはそれ以来、厨子の奥深くに収められたまま、千二百余年もの長い歳月、秘仏として誰一人として、そのお姿を拝んだ者はないのだそうだ。しかも今の小さな厨子には入口も扉も無く開けることもできない。だから見ようとしても見られない。

 実忠はすぐこの小観音の御前で、兜率天で見てきた十一面悔過を開始したというのである。第一回は、天平勝宝4年2月1日から14日間(二七日にしちにち)で、それ以来、毎年一度も欠かさず70回修しつづけ、大同4年2月5日、修二会の後夜の法要中、須弥壇(しゅみだん)の下ヘもぐり込んだまま、杏として行方を絶ってしまった。蒸発してしまったのだ。

 これはあまり知られていないお水取りの伝説である。しかし本人まで消えたというのはこの年亡くなったということか。実忠は日本人ではなくインドかイラン人だったのではともいわれている。(言われているだけでそうだと言っているわけではありません。)
 そうなるとこの須弥壇の下に消えたという話も合点がいく。というのも須弥壇の下は極楽に通じているという伝説がチベット仏教にあるからだ。

 小観音の厨子は80センチ。普段は須弥壇の背後に安置されている。修二会は上7日を大観音を本尊に、下7日は小観音を本尊として勤められる。
 7日18時「小観音出御」が行われ、小観音は練行衆に担がれて礼堂に出御して深夜に須弥壇の前に安置される。実は小観音は平安時代の末まで境内北辺にあった寺の執行組織上司の印蔵にあり、修二会の時だけ二月堂へ迎えられていた。小観音出御はその名残ともいわれる。

 寛文7年2月13日の早朝、二月堂内陣から出火して堂を全焼した。小観音は堂司・実賢が炎に包まれる厨子を押し破り、袈裟に包んで救出したと「二月堂修中練行衆日記」にある。これは達陀の行の時でしょう。不思議なことに大観音は燃えずに焼け跡に立っていたそうである。以来秘仏に戻ったが実は大観音は明治の初期に一度公開されている。だから本体はそれほどひどい損傷ではないわけだ。この火災で大観音の光背は砕け天衣の一部も割れた。奈良国立博物館のお水取り展に毎年光背と天衣の一部は出品されているがこなごなで真っ黒焦げである。これも200年忘れられ、1900(明治33)年、三月堂前の校倉から建築史家関野貞により発見された。

■稲垣家と童子の家
 堂童子と小綱兼木守の役職の稲垣家を長年「I家」としてきたが、'06年に新聞夕刊にも載っていたので稲垣家として載せることにする。'01年代替わりして当時34才の会社勤めの方が引き継ぎされた。だから修二会の間役目があるときは休暇を取って参篭する事になる。これは大変だなあと思う。でも実は稲垣家は修二会と切っても切れないほど深い関係がある。実際に香水をくむお水取りには練行衆5人は見張りをしていて入れないのに、咒師と稲垣家の堂童子と閼伽桶を担い台で運ぶ庄駈士は入れるわけなのだ。何しろ稲垣家は1300年も続くという。そんな家は日本でもそれほど無いのだ。別に古い家ほどいいわけではないが希少価値はある。そしてその間お水取りとの関係は続いてきたのだ。
 11面観音、子観音は難波津で実忠さんにより取り上げられたが、そこから実は稲垣家の方に今の二月堂の所まで運ばれた。
 でも小さな観音をなぜ実忠さんが運ばず、よその方が運搬する。これはいくら何でも理屈に合わないので絵や本などではまるで載ってない。
 もしかしたら実忠さんが取り上げたのは宗教的な伝説で、二月堂ただし当時は実忠さんの宿舎に稲垣家の方が届けたのは史実なのではないだろうか。つまりは若き実忠さんの支援者の稲垣家が費用を出して作って納めたのでは。

 もっとやっかいなのは、童子の家の方だ。私は童子の家がなかなか信じられなかったのだが、代々それを役職とする民間の家が多数存在する。元は全員が東大寺近くに住んでおられた。今は遠くに居住される方もおられるようだ。ただし表に出て発言したり取材など受けられることは近時になってNさんが講演やテレビに出演された以外はない。それ以外はどこの方かもわからない。

 これをやっと理解できるようになったのは修二会でない他の役職の家の方たちが存在して最近父親が引退されて息子さんが引き継ぎされたことを子息ご本人から聞いたからだ。実は周囲にいた方だった。もちろん普通の会社員だ。しかし'06年そのことを知ったときは驚いてかなり文化的なショックを受けた。まだまだ東大寺は深い。

 知り合いに聞いたが、2007年8月7日の大仏さんのお身ぬぐいに稲垣家の方が白衣で参加されていたそうだ。大変なお役目だと思う。


■修二会継続への努力

 修二会は一度も休んだことがない。平重衡の南都焼き討ちで東大寺の中心部が焼かれたときも、戦国末期の三好・松永氏の戦闘で大仏殿が焼けたときも、二月堂自体が江戸時代1667寛文7年失火により焼けて3年後再建されるまでのときでも仮堂で実施され中止されなかった。しかし本当に困難だったのは太平洋戦争後の飢餓の時代であったろうと思われる。明治以後もはや公的な背景もなかった。その中で国全体が飢えていたのだ。

 この時は、故堀池春峰氏(東大寺史研究所所長)らが努力して食料や物資を集められ功績が大きいと聞いている。堀池家とは何か。実は中世にはいって事務局長にあたる職務の家系が定められた時のその家なのである。もちろん現代なのだからそういうことはないが縁は続いているのだ。ちなみに興福寺は、筒井順慶の筒井家が元はその事務局長の家系だった。


■伝説紹介

 では若狭との関係の伝説。行法の時、「神名帳」というのを読み上げ、全国八百万の神々を勧請して、行法の無事完了を祈る。ところが若狭の遠敷明神は釣が大好きで、その日も魚釣に熱中していて、ようやく釣をやめて二月堂へ駈けつけた時には、すでに行法が終りかけていた。その行法のあまりのすばらしさに、明神は感激して、遅参を恥じて、おわびのしるしに、「今後は閼伽水をずっと献じましょう」と、仏前で誓った。と、そのとたん、突如として、二月堂の下の盤石を破って、白と黒の鵜が飛び立ち、その跡から甘泉が湧き出した。それを囲ったのが、今の二月堂の閼伽井で、「若狭井」と呼ばれている由来だという。若狭の遠敷明神前の川は、その時から水が涸れたので音無川と呼ぶようになったといわれている。

 もう一つ有名な伝説で、「青衣の女人(しょうえのにょにん)」がある。5日と12日に過去帳を読み上げ、東大寺ゆかりの人々の名を読み上げる。鎌倉時代の承元の頃のある夜のこと。練行衆の読役の集慶が源頼朝から17人とゆるやかに読むくだりが終わり一つの山を越えて、後は坂を下るように迅速に読もうとすると、幻のように青衣の女があらわれ、
「などわが名をば過去帳にはよみおとしたるぞ」
と、怨めしそうに言った。集慶は思わず、
「青衣の女人」
と声をあげた。それ以後、過去帳には、大施主「将軍頼朝右大将」から17番めに「青衣の女人」と書きこまれている。連日の行で疲労した集慶の幻覚だったのかもしれない。

 国立博物館のお水取り展で確認しましたが古い過去帳に頼朝から17番めに「青衣の女人」と載っていました。


■「別火」というキーワード
 先にも書いたが前行は戒壇院の別火坊で行い、「別火」が重要なキーワードとなる。別火というのは火を俗世間である外部とは別にするというところからきている。練行衆はもちろん加供や童子、仲間などの世話役も実は別火となり篭もることになる。そして練行衆の使う火はそのために火打ち石で切り出した浄火になる。逆にこの火には外部の人は当たれない。そして世間からの篭もりが一つの修行となる。試別火はまだゆるいが総別火となると大広間で起居して私語も禁止となる。新聞記者が取材に行ってもこの中では極寒でも火に当たれない。といっても実は台所から運んできた火は「捨火」として捨てるわけで、そう書いた紙を貼って昔は火鉢を置いてくれたそうだが。最近は火鉢かどうかわかりません。

  ここで私の意見を書いておくと、差別につながる穢れの思想があるかというとそれはない。穢れの思想というのはもっと後のものだからだ。そうなると今のおたいまつの意味というのは、別火で生まれた火である浄火がやがておたいまつとして拡大していき全ての人に与えられる、ということになりそうだ。おたいまつの火は間違いなく浄火なのだから。まあおたいまつは今の形がいつなったかはわからない。でも達陀はずっとあの形式のはずだ。

 お水取りの後、達陀の行では観衆に火の粉が飛び散るわけだし、礼堂も火天が火をまき散らして浄化する。それで社会全体がリフレッシュされるわけだ。おたいまつは積極的なその拡大版なのでは。そうなると、「おたいまつの火の粉を浴びると1年間幸いで病気にならない」というのも、宗教的根拠はないと東大寺側からだいぶ以前から聞くが、あれは意味があるんじゃないか、などと思ってしまう。おたいまつは、もしかしたら伝染病が蔓延したときにああいう形になったのではないか。なぜ東大寺がおたいまつに意味はないと否定するのかわからない。国家仏教だから民衆信仰の思いを拒絶するということがあるのかもしれない。

 香水が病気除けのため分け与えられている。それも特定個人ではなく社会全体の病気除けとリフレッシュの意味があるのではないか。この香水の分け与えはかなり古くから行われている。


■修二会スケジュール

時間付き日程表(リンク) 六時の行の時間はここを。

前年

12月26日 練行衆配役発表 四職 和上,大導師、咒師、堂司
平衆 北座衆ノ一、南座衆ノ一、北座衆ノ二、
南座衆ノ二、中堂ノ一、権処世界、処世界

2月前行スケジュール 本表は1日24時間制で記述。通常東大寺ではその日に行う行はその日と判断しています。○場所 戒壇院別火坊 ()うるう年

行事 説明
20日 19時 別火入り  俗世間の人とは別の火を使い、精進潔斎の生活をしながら3月1日からの本行に備える別火の開始。供え物、紙衣、造花の南天や椿400個の準備、声明の練習などをする。
21日 13時
13時半
1.社参
2.試みの湯
1.大仏殿、天皇殿、開山堂の実忠像などを巡拝し参篭を報告無事を祈る。大仏殿東側石段の中ほど、鐘楼の南側、四月堂の側、閼伽井屋の前、4箇所で法螺貝を吹き鳴らす。
2.行法中入浴する風呂に試みに入る。入浴後は二月堂舞台に上がり聖武天皇陵のある北西と本尊に向かい合掌する。
22日
23日 ・花ごしらえ ・造花と燈心の作成。
24日 5時 ・上七日壇供搗き ・お供えの餅つき。3石6斗で千、230、10面。
25日
(26)
13時
13時50分頃
1.社参
2.捨火
1.社参途中に不参加の僧に暇乞いする。
2.社参後この日のみ自坊に帰り娑婆の火に当たり茶を飲むことが許され精進の夕食も取る。初夜までに帰参し練行衆のほか三役、加供、仲間と団欒の時を過ごす。会中唯一の時である。
26日
(27)

18時
1.総別火入り
2.貝の吹き合せ
1.外出せず土も踏まないというさらに厳しい「総別火」に入る。大広間で全員が起居し私語も禁止。廊下を仕切り火鉢を置く所のみ話合いを許可。紙衣を着用する。
27日
(28)
10時
18時
18時半
1.椿の花付け
2.衣の祝儀
3.貝の吹き合せ
1.23日作成の椿の造花を 椿の枝に付ける。落ちた花は塵と称し付けない。
28日
(29)
15時
18時
1.二月堂参篭宿舎
入り
2.大中臣祓
(天狗寄せ)

3月本行スケジュール ○場所 二月堂参篭宿舎

1日 1時
12時
14時15分
19時
20時半
1.受戒
2.食堂作法
3.一徳火
4.おたいまつ(10本)
5.神名帳
3.二月堂内外の灯が全て消され扉が閉ざされる。堂童子が練行衆の前に出て火打ち石で浄火を切り出し、本尊の常燈に点火する。堂司はその常燈を持って内陣に入り、須弥壇の正面中央に据える。これからの1年間不滅の燈として守られる。
2日〜
4日
12時
19時
20時半
1.食堂作法
2.おたいまつ(10本)
3.神名帳
5日 11時半
13時半
19時
21時半
19時半
20時
1.食堂作法
2.下七日壇供搗き
3.おたいまつ(10本)
4.神名帳
5.実忠忌
6.過去帳
5.確か実忠さんは須弥壇の下に消えたはずなのに忌とは!。また這い出てくる可能性はある?
6日 0時15分
12時
19時
20時半
23時15分
1.走りの行法
2.食堂作法
3.おたいまつ(10本)
4.神名帳
5.走りの行法
7日 12時
18時
19時
20時半
23時15分
24時15分
1.食堂作法
2.小観音出御
3.おたいまつ(10本)
4.神名帳
5.走りの行法
6.小観音後入
2.詳細は上記したが、小観音は練行衆に担がれて礼堂に出御して深夜に須弥壇の前に安置される。
8日 11時45分
12時20分
19時
20時半
1.受戒
2.食堂作法
3.おたいまつ(10本)
4.神名帳
9日〜
11日
12時
19時
20時半
1.食堂作法
2.おたいまつ(10本)
3.神名帳
12日 12時
19時半
21時半
22時
1.食堂作法
2.おたいまつ(11本)
3.神名帳
4.過去帳
13日 1時
2時
3時
12時
19時
20時半
23時
1.走りの行法
2.お水取り
3.達陀
4.食堂作法
5.おたいまつ(10本)
6.神名帳
7.走りの行法
14日 1時
12時
18時半
20時
22時
24時
1.達陀
2.食堂作法
3.おたいまつ(10本)
4.神名帳
5.走りの行法
6.達陀

■おたいまつをみるには

◎二月堂までの交通
 近鉄奈良駅から徒歩35分くらい。駅前からバスに乗れば約8分で「大仏前」バス停下車。そこから歩いて15分ほど。夜だから少し迷うかも。たいていぞろぞろと歩いて行くからわからなかったら聞いてついていきましょう。

 もし少し遅れて誰もいなかったら。懐中電灯と地図を準備していないとすごくわかりにくいでしょう。12日以外は辺りに人がまったくいない可能性が高いのです。しかも南大門をくぐり東大寺エリアに入っていくと夜は真っ暗で二月堂周囲までは本当に寂しいところなのです。脅かしているわけではありません。十分な準備か早めに行くことをお薦めします。

◎「お松明」 時間帯は
 1日〜11日、13日     19時    (松明  10本) 所要時間は約20分
 12日             19時30分(篭松明11本) 所要時間は約45分
 14日             18時30分(松明  10本) 所要時間は約10分
 期間は3月1日から14日まで。早めにいかないといい場所はとれません。
 「お松明」は舞台の下なら火の粉を頭からかぶる覚悟が必要です。その場合は上の方へ。
 周囲にいたら全体が見られます。登廊近くならたいまつが上がっていくのが見られます。
 しかし特に12日、次に最終の14日は人が多すぎる。篭松明の12日はものすごい混雑で警察官に2、3本見ると移動させられます。避けた方が無難です。14日は10本のたいまつがいっせいに並んで火の粉を落としながらフィナーレを飾ります。それでぎっしりです。12、14日は移動も場所を選ぶのも難しいし自由に見られません。

 そして土日も人が多い。でも休日しかダメという方はまあ12日、14日ほどではないですし1時間前に行けば確実にいい場所で見られます。実は近辺の方は平日の12、14日以外に行って楽しんでいます。
 しかし後半金曜日は最近観光バスツアー客が多くなり土日並の人手になりました。

●雨の時 特に注意したいのは、雨の場合です。簡易ビニールレインコートを用意した方がいいです。近鉄奈良駅を出て行基噴水の横から続く東向商店街のアーケードを入ると5分でザ・ダイソー近鉄奈良駅前店があります。
 もし用意が無い場合で12日は短時間で追っ払われ濡れることもない。しかし14日や土日などで人でいっぱいで自由に場所を決めたり移動もできない。そのうえかなりの雨でも離れにくいという場合があります。遠くから来て感動してとか、私もやったのですがグループできて1人帰れずエイままよ!何て時です。人が少し多いと傘はさせません。後ろから怒ってきます。だからレインコートがないとずぶぬれになります。その場合そのまま家や宿に帰ると間違いなく風邪ひきです。実は意外にも二月堂舞台前石段下の直近の土産物屋で松明後にも喫茶店が開いているのです。本当に助かりました。天の助けなので店名を出します。「喫茶・お食事あぜくらや」といいます。ここでコーヒーなど飲んだり、替えを持ってたらトイレで着替えられます。

■おたいまつ後二月堂参拝ほか
 1〜13日のお松明の後、まだ帰るのは早い。実は松明の後で閉めきりの縄が外されると石段を上って二月堂に参拝できます。ここで今さっきまで松明を振りかざしていたんだと確かめられるこの時しかない独特の雰囲気の夜の二月堂です。ぜひ行ってみてください。ちゃんとお賽銭を忘れずに。

 そして帰りにさきほど松明が上っていった後の登廊を降りていきます。これも感慨深い。すると降りたところに、今まで燃やしていた松明が全部立てかけてあります。触れられます。壊してはダメですよ。ただし童子さんなど係の方がいればちゃんと断ってから触って下さい。

 えっ、14日は参拝は無いのかって。ありません。石段も登れません。物欲しそうに閉めきりの縄のところで待っていると、警備担当の童子さんが「もうこれで終わりで何もあらへん(無い)からね。また来年きてや。」と言ってくれます。毎年同じ童子さんです。

●東向商店街あめ湯無料サービス
 帰りに近鉄奈良駅まで戻ってくると、南側のアーケード東向商店街の真ん中あたりで商店街団体からお水取り見学者用にあめ湯無料配布サービスをしていただいてます。あめ湯って何ですかって。生姜味の甘い飲み物です。とても温まりますので感謝してどうぞ。

■行を見る場合の外陣入りの許可は困難、局に入るには
 二月堂の観覧者は局と外陣に分かれます。局はいわば囲いの中なのです。つまりある程度自由に見るのは行の行われる内陣の周囲の外陣に入る必要があるのです。しかし前もって許可がいります。この許可は「縁のある人のせまい道」でなかなか難しい。東大寺塔頭の関係者でないと無理のようです。ここまではまだいいのです。
 それともこれはかなり保守的な特権の世界なのですが、大仏奉賛会(東大寺の後援会)に入っていて、しかも寄付をかなりしているとかでないと。やれやれと思います。

 他の12日から14日の行は、局という外の仕切の中に入るのも人が多いので、許可を求められます。それ以外の他日の行は、声明などを聞くには局でも十分ですし局なら別に許可などいりません。でも多くなってきて許可がいるようになったら困るな。
 しかも過去帳などは仕切内では見るのは困難だと思います。外陣の廊下部分でじっと内陣の仕切に顔を当ててないとわからないのでは。

◎過去帳
 5日と12日の両日午後10時から。

◎達陀
 奉賛会参加と多額の寄付か、塔頭の推薦と、かなりせまい道ですが中へ入れたら、時間帯は13日は午前3時頃、14日は午前1時、15日午前0時頃から。ただし入堂は1時間くらい前からでしょう。
 油煙で少し汚れてもいい服装をしてください。

■写真撮影
1 おたいまつは普通に撮影するくらいであれば大丈夫です。フラッシュ撮影も可能です。
2 ストロボは全面的に使用禁止です。使用したら怒られて退場させられるかも。
3 三脚を使用する場合、許可を得て(非常に困難)二月堂右下の報道関係者席でのみ使用できます。(撮影許可証、腕章を掲示)。しかし違反者は多く、それはまだいいとしてもちっとも遠慮がなく全然違う場所を少人数で広く占領して文句を付けたりえらそうにのさばろうとします。何様のつもりでしょう。
4 登廊周辺はフラッシュ禁止です。
5 12日の深夜2時(実時間13日)のお水取り時の若狭井周辺、二月堂内陣は全面撮影禁止。撮影者はカメラ没収!退場!


こぼれ落ちた話のページ[こぼれ水の話1 香水-実忠和尚-おたいまつ
               [こぼれ水の話2 言葉-用具(制作中)]
               [こぼれ水の話3 黒田新庄松明調進(制作中)]


[リンク]

炎と水の伝統神事 若狭小浜お水送り大護摩松明行列

お水送り(小浜市HP)

名張市赤目町たいまつ調進行事 (名張青年会議所)  

東大寺お水取り(VRK「平城山」)-修二会


[参考資料]
『東大寺』 東大寺編 学生社刊    
普及版『東大寺 お水取り−二月堂修二会の記録と研究』 小学館刊


(調整中)